え なん じ

公開日: 23.06.2020

キーワードで探す シベリア 日本国語大辞典 ツンドラ トナカイ フィールドワーク ロシア ハンティ語 ザンジバル スワヒリ語 タンザニア 言語学 タイプライター 三省堂 牧夫 人名用漢字 アラビア語 ヌムト ヘリコプター トナカイ橇 馴鹿 ウラル山脈 先入観 天幕 採食行動 平安時代 typewriter 古語 オビ川 ツンドラゴケ 肉食動物 草食動物 ハンティ 年末年始 新年 全訳読解古語辞典 詳説古語辞典 放牧 活字 絵巻 粉河寺縁起 年中行事絵巻 承安五節絵 信貴山縁起 源氏物語 書体 文字 フォント 印刷 季節移動 文化人類学 博物辞典 類語活用必携 源氏物語絵巻 日本語 教育 語彙 日本語教育 辞書 英和袖珍字彙 和英袖珍字彙 新撰支那時文辞典 学習百科辞典 新修百科辞典 クラウン英和辞典 用字用語必携 日西大辞典 コンサイス仏和辞典 新撰漢和辞典 漢字林 ルビー英和辞典 センチュリー英和辞典 婦人家庭百科辞典 常用漢字新辞典 コンサイス独和辞典 紫式部日記絵巻 亀井忠一 袖珍コンサイス和英辞典 伴大納言絵巻 図解現代百科辞典 新訳和英辞典 三省堂英和大辞典 小辞林 模範国漢文辞典 ジェム英和・和英辞典 明解漢和辞典 広辞林 袖珍コンサイス英和辞典 新漢和大字典 袖珍英和辞典 常用漢字の字引 模範新英和大辞典 ローマ字びき実用国語字典 ABCびき日本辞典 日本外来語辞典 大正漢和大辞典 大正独和辞典 帝国地名辞典 模範英和辞典 日本百科大辞典 辞林.

屈原 劉安 劉向・劉きん 呂不韋 宗玉 景差 熊繹・熊通 蘇秦・張儀 懐王 頃襄王 劉長 王充・干宝・葛洪.

seigow - marking [] 『淮南子の思想』金谷治(講談社 )より. 新たに淮南王となった劉安は、父と異なって書を好み、琴絃を愛し、学士を敬愛して、みずから文章をよくする者だった。とくに淮南の地の周辺に育まれた伝承文化に関心をもって、たとえば方術の士を多数招いたりもした。このとき楚辞のあらかたに格別の愛着をもったのだと思われる。  文帝が死に景帝が立ち、次の武帝が18歳で即位したとき、劉安は40歳になっていた。すでにいつかの著作をものしていた淮南王は、好奇心旺盛な武帝にその一部を献呈する。武帝も従叔父から贈られた南方の世界観にけっこうな興味をもった。礼状は側近の司馬相如に推敲させて、それなりの敬意を表した。.

千夜千冊 編集部. 生代篇 夜 フレデリック・ケック 『流感世界』. そもそも中華文明というのは 周の社会・制度・文化をいつも基軸モデルにおくことで、そのセンター性すなわち華夷秩序を保ってきた 。歌謡や宗教の発生でいうのなら、周に伝わる古い歌謡が『詩経』となり、古い記録が儒教となった。その周の基軸モデルから見れば、楚の社会文化なんてものは(呉や燕もそうであるけれど)、たんなる辺境なのである。  ところが、春秋時代になるとその楚がだんだん大きくなって、古代中国史は、北方や中原の諸侯が南方の楚が北に広がってくるのを抑える戦争に終始するようになっていった。戦国時代の戦争はほとんどが戦国六国と楚とのあいだの戦乱だったといっていい。  そうした楚の地にいつしか「楚辞」(そじ)が生まれた。楚辞は土地伝来のシャーマニックな巫歌の伝承にもとづき、それ以前の古代中国にはまったく見られなかった新しい文芸の異風をつくりあげた。それまでの北の『詩経』が集団的な楽歌だったとすれば、南の「楚辞」は屈原や宋玉や景差といった強烈な個性を育て、やがて滅びゆく楚風を偲ぶ「負の文芸」としての異色を極めたのである。.

.         ?

屈原 劉安 劉向・劉きん 呂不韋 宗玉 景差 熊繹・熊通 蘇秦・張儀 懐王 頃襄王 劉長 王充・干宝・葛洪.
  • 新たに淮南王となった劉安は、父と異なって書を好み、琴絃を愛し、学士を敬愛して、みずから文章をよくする者だった。とくに淮南の地の周辺に育まれた伝承文化に関心をもって、たとえば方術の士を多数招いたりもした。このとき楚辞のあらかたに格別の愛着をもったのだと思われる。  文帝が死に景帝が立ち、次の武帝が18歳で即位したとき、劉安は40歳になっていた。すでにいつかの著作をものしていた淮南王は、好奇心旺盛な武帝にその一部を献呈する。武帝も従叔父から贈られた南方の世界観にけっこうな興味をもった。礼状は側近の司馬相如に推敲させて、それなりの敬意を表した。.
  • 横山大観「屈原」 (厳島神社蔵 ).

この商品を買った人は、こちらにも興味をもっています

屈原 劉安 劉向・劉きん 呂不韋 宗玉 景差 熊繹・熊通 蘇秦・張儀 懐王 頃襄王 劉長 王充・干宝・葛洪. 春秋戦国時代の思想・文化 『ビジュアルワイド図説世界史』(東京書籍 )より. おすすめコラム 年6月12日 第86回 Flashdance… What A Feeling (/全米No. 新たに淮南王となった劉安は、父と異なって書を好み、琴絃を愛し、学士を敬愛して、みずから文章をよくする者だった。とくに淮南の地の周辺に育まれた伝承文化に関心をもって、たとえば方術の士を多数招いたりもした。このとき楚辞のあらかたに格別の愛着をもったのだと思われる。  文帝が死に景帝が立ち、次の武帝が18歳で即位したとき、劉安は40歳になっていた。すでにいつかの著作をものしていた淮南王は、好奇心旺盛な武帝にその一部を献呈する。武帝も従叔父から贈られた南方の世界観にけっこうな興味をもった。礼状は側近の司馬相如に推敲させて、それなりの敬意を表した。.

楚の窮状は亡国の憂き目の様相を呈してきた。懐王はなんとかこの苦境を凌ごうとするが、どうにもうまくない。ここに登場してきたのが屈原だったのである。  屈原は、孤立無援となった楚が存続するには六国が同盟して秦に当たるよりほかはないと懐王に提言するのだが、なかなか受容されない。それどころか、側近たちの讒言も加わって2度にわたって放流された。懐王が秦に捕らえられて客死したのちに次王となった頃攘王(けいじょうおう)のときは、江南に流されて9年もの流浪を強いられた(実際に9年間だったかどうかはわからない)。  こうして屈原は公憤に震え、義憤に怒り、私憤に悶えて、ついに洞庭湖のほとりの泪羅(べきら)の淵に身を投げ、悲劇の生涯を了える。紀元前278年あたりのことだったと推測されている。泪羅はいまなお湖南省長沙にある。.

三省堂 辞書ウェブ編集部による ことばの壺. このことは、次のように見ればもうすこしよくわかる。劉安が壮年に向かうとき、武帝の漢帝国にはいよいよ「華夷秩序」のセンタリングが驀進しはじめていた。そこではセントラル・チャイニーズというものの根本発動が試されつつあったのだ。その中央から見れば、淮河の中南にある淮南は武帝にとっての最大の辺境国のひとつにすぎなかった。  そこで当初の武帝は、中華大陸のいろいろな地域に、もしも自分(=漢帝国)が参照し、必要ならば略奪したってかまわないような根本発動のエンジンが残っているのなら、これをことごとく自前にしようと思ったわけである。それゆえ西域からも匈奴からも、淮南からも朝鮮半島からも、エンジン候補のあれこれを提供させた。いっとき淮南王に屈原の楚辞にひそむ 未知のエンジンの解読 を求めたのは、そのためだった。  しかし漢の帝国の形ができあがるにつれ、武帝はこれらのエンジンを取り込む面倒を感じ始めたのだったろう。国家経営からすると、辺境各地の特異なエンジンの適用をいちいち組み立てようとするのは、コストもかかりすぎるのだ。  それよりも第1には、中央からの「制度設計」をゆきわたらせさえすれば、これらのエンジンなど相手側が適当にアプリをしてくれる。それには優秀な役人をふやして送りこめばよかった。また第2には、辺境の人材をそのままとりこんでしまえば(アメリカの移民政策のように)、そのもともと国々の由縁や由緒などどうでもよくなった。そして第3に、何にもまして儒教を拡張し、これに周辺の多様な思想をとりこんでしまえばいいだけなのである。  これが武帝の古代帝国主義政策である。ということは、ここにおいて中央と辺境ははっきり切断されたわけである。辺境は見捨てられたのだ。では、それで淮南王はどうしたのか。.

!        .    .            .

えなんじ 【淮南子】

最初の淮南王は劉長といった。漢王朝を開いた高祖劉邦の子だった。だから恵帝や文帝は兄弟にあたっている。しかし、兄弟とは異なり、劉長の母は彼を産み落とすとほどなく悶々のうちに自殺した。  なぜ、そんなことになったのか。紀元前199年、高祖は天下統一の3年後、韓王信の反乱を破っての帰途、趙の国に立ち寄った。趙王の張敖(ちょうごう)はこの粗暴きわまりない皇帝を礼を尽くして迎え、夜な夜な美女をあてがってその好色を充血させた。その一人が身ごもった。そこで生まれた嬰児が劉長なのである。  母は高祖に皇帝の子を産んだことを告げたものの無視された。あまつさえ皇帝夫人の呂后や側近の審食其(しんいき=辟陽侯)からも睨まれ、疎(うと)まれた。母はどこにもその憂愁を伝えられない情けない気持ちのまま、ついに自殺して果てた。  残された劉長は忌しい呂后を仮の母として宮中で育てられていく。やがて高祖はこの少年を淮南の地に送り、厲王とした。稚(いとけな)い王だった。高祖が亡くなり、次の恵帝、その次の文帝になったとき、厲王(れいおう)劉長は20歳の若者になっていた。  任侠を好む力自慢の青年である。血も騒ぐ。母の非業の死が忘れられない青年に、宮中に参内する時期がやってきた。青年はひそかに袖にしのばせた鉄槌(かなづち)をもって、母を自殺に追いやった辟陽侯審食其をその場に打ち殺す。列侯の一人を殺したのだからお咎めがあって当然だったが、兄の文帝はこれを許した。  これで劉長はいささか図に乗った。淮南に戻るとさっそく漢の法律を無視し、自身で法をつくり、亡命者や遊侠の徒を集めてさかんに匿(かくま)った。そればかりか前174年には漢室への謀反を企てた。陰謀はすぐに露見した。文帝は弟を棄市(死刑)とするのは忍びなく、やむなく四川の奥地に流すことにした。  しかし矜持の高い厲王はそこで食事を断って餓死を選ぶ。母についで子もまた非業の死を選んだのだ。  こうして残されたのが3人の子で、そのうちの長男の劉安が淮南王を継ぐことになる。.

国境の塞 (とりで) に近い所に住んでいる人で、占いが得意な人がいた。その人の馬がなんの理由もなく、異民族の地域へ逃げてしまった。人々がみんなで彼を慰めた。するとその占いの得意な父親が、「馬の逃げたことが福になるであろう。」と言った。数か月すると、逃げた馬が、異民族の名馬を連れて帰ってきた。人々がお祝いを言うと、父親は、「このことが禍 (わざわ) いになるであろう。」と言った。その家には良い馬が増えたので、息子は乗馬を好み、乗っているうちに落馬して股 (もも) の骨を折ってしまった。人々がお見舞いに行くと、父親は、「これが福となるであろう。」と言った。一年たつと、異民族が塞へ攻め込んできた。若者たちは、弓を引き戦った。そして塞近くの人は、十人中九人まで死んだ。ところが息子は足が悪かったので、兵役に駆り出されず、父親と共に無事だった。このように福が禍いとなり、禍いが福となる、その変化はとうてい人間の知りうるような浅いものではなく、その深さは予測できないものなのである。.

その屈原が 祖国を思い、万感無念の裡に 綴ったのが、楚辞文芸の傑作中の傑作『離騒』(りそう)だった。いまは詳しいことは書かないが、『離騒』は375句におよぶ長編詩で、すべての漢詩の半分はここに始まったとも思える特異な技巧と壮絶な内容を湛えている(漢詩のもう半分は『詩経』に始まった)。  ちなみに『離騒』の前半は、屈原が自叙伝ふうに出自や学知を詠い、その後は王を扶(たす)けて理想を求めたにもかかわらず、讒言のために失脚したことを嘆じる。そのうえで、王また当初の約束を忘れてしまった以上、いまや自分の心を知る者はどこにもいないという悲憤を訴える。  後半では、こうとなってはいっそ 現世を越えて天地の果てまで遍歴し 、新たな理念の理解に達しようとするのだが、その希いすらもはや叶わないことを知る。まるでバニヤンの『天路歴程』の一千年の先読みなのである。そこでいったん現世を見つめなおすのだが、時代が汚辱にまみれている以上はもはや祖国をも捨てざるをえないと決意する、しかし屈原という男、決して望郷の念も捨てられず、ついに 死をもって祖国に殉ずるほかない ことを、みずから歌い切ったまま楚辞を了えていく。だいたい、こういうふうになっている。.

このことは、次のように見ればもうすこしよくわかる。劉安が壮年に向かうとき、武帝の漢帝国にはいよいよ「華夷秩序」のセンタリングが驀進しはじめていた。そこではセントラル・チャイニーズというものの根本発動が試されつつあったのだ。その中央から見れば、淮河の中南にある淮南は武帝にとっての最大の辺境国のひとつにすぎなかった。  そこで当初の武帝は、中華大陸のいろいろな地域に、もしも自分(=漢帝国)が参照し、必要ならば略奪したってかまわないような根本発動のエンジンが残っているのなら、これをことごとく自前にしようと思ったわけである。それゆえ西域からも匈奴からも、淮南からも朝鮮半島からも、エンジン候補のあれこれを提供させた。いっとき淮南王に屈原の楚辞にひそむ 未知のエンジンの解読 を求めたのは、そのためだった。  しかし漢の帝国の形ができあがるにつれ、武帝はこれらのエンジンを取り込む面倒を感じ始めたのだったろう。国家経営からすると、辺境各地の特異なエンジンの適用をいちいち組み立てようとするのは、コストもかかりすぎるのだ。  それよりも第1には、中央からの「制度設計」をゆきわたらせさえすれば、これらのエンジンなど相手側が適当にアプリをしてくれる。それには優秀な役人をふやして送りこめばよかった。また第2には、辺境の人材をそのままとりこんでしまえば(アメリカの移民政策のように)、そのもともと国々の由縁や由緒などどうでもよくなった。そして第3に、何にもまして儒教を拡張し、これに周辺の多様な思想をとりこんでしまえばいいだけなのである。  これが武帝の古代帝国主義政策である。ということは、ここにおいて中央と辺境ははっきり切断されたわけである。辺境は見捨てられたのだ。では、それで淮南王はどうしたのか。.

.

螳螂之斧(淮南子) 書き下し文と現代語訳

春秋時代の全体図 『ビジュアルワイド図説世界史』(東京書籍 )より. 戦国時代の全体図 『ビジュアルワイド図説世界史』(東京書籍 )より. 交貨篇 夜 スーザン・ストラッサー 『欲望を生み出す社会』.

. seigow - marking ? HOME.          .        .

生代篇 夜 フレデリック・ケック 『流感世界』. 人の世の運命の吉凶禍福は予測できない。禍 (わざわ) いも悲しむに及ばず、福も喜ぶにはあたらないという意味に用いる。どちらかといえば、禍いに遭ってもいずれ福も訪れることがあるというほうに多く使用される。「塞翁 (さいおう) 」とは、国境の塞 (とりで) の近くに住んでいる老人という意味だが、原典には、「塞上に近き人」の「父」という言葉で出てきて、直接「翁」という語は用いられていない。班固 (はんこ) の『幽通賦 (ゆうつうふ) 』、また、『後漢書 (ごかんじょ) 』蔡邕 (さいよう) 伝には、『淮南子 (えなんじ) 』のこの語をふまえて「北叟 (ほくそう) (=北のとりでの老人)」の語を用いている。. 近 二 塞上 一 之人、有 二 善 レ 術者 一 。馬無 レ 故亡而入 レ 胡。人皆弔 レ 之。其父曰、此何遽不 レ 為 レ 福乎。居数月、其馬将 二 胡駿馬 一 而帰。人皆賀 レ 之。其父曰、此何遽不 レ 能 レ 為 レ 禍乎。家富 二 良馬 一 。其子好 レ 騎、堕而折 二 其髀 一 。人皆弔 レ 之。其父曰、此何遽不 レ 為 レ 福乎。居一年、胡人大入 レ 塞。丁壮者、引 レ 弦而戦。近 レ 塞之人、死者十九。此独以 二 跛之故 一 、父子相保。故福之為 レ 禍、禍之為 レ 福、化不 レ 可 レ 極、深不 レ 可 レ 測也。〔塞上 (さいじょう) に近きの人に、術を善くする者有り。馬、故 (ゆえ) 無くして亡 (のが) れて胡 (こ) に入 (い) る。人皆これを弔す。その父曰 (いわ) く、これ何遽 (なん) ぞ福と為 (な) らざらんや、と。居 (お) ること数月、その馬、胡の駿馬 (しゅんめ) を将 (ひき) いて帰る。人皆これを賀す。その父曰く、これ何遽ぞ禍 (か) と為る能 (あた) わざらんや、と。家、良馬に富む。その子騎を好み、堕 (お) ちてその髀 (ひ) を折る。人皆これを弔す。その父曰く、これ何遽ぞ福と為らざらんや、と。居ること一年、胡人大いに塞に入る。丁壮 (ていそう) なる者、弦を引きて戦う。塞に近きの人に、死する者、十に九なり。これ独り跛 (は) の故を以 (もっ) て、父子相保つ。故に福の禍と為り、禍の福と為る、化、極むべからず、深、測るべからざるなり。〕.

知っておきたい:

コメント

コメントを追加

サイトに公開する前に、あなたのコメントがモデレートのために送信されます。

© 2020 gonzalohermida.com | 利用規約 | 連絡先 |